FILOSOFIA
料理哲学
鎌倉の静けさと、トスカーナ
の火を、一皿の余韻へ。
KAMAKURA × TOSCANA

二つの土地に根ざす、
ひとつの料理。
山と海が近い鎌倉の静けさ。丘陵と葡萄畑が広がるトスカーナの温かさ。異なる二つの風土に共通するのは、季節を待ち、素材を尊ぶ営みです。土地の記憶を薪火と手仕事で結び、一皿の中に穏やかな時間をつくります。
山と海が近い鎌倉の静けさ。
丘陵と葡萄畑が広がるトスカーナの温かさ。
異なる二つの風土を、季節と薪火で一皿に結びます。

ANÈLITO
トスカーナを、再現しない
トスカーナへの憧憬は、その風景を十二所に再現することではない。なだらかな丘。陽を受けて色を変える大地。長い時間を刻んできた石造りの家。それらは確かに、私たちがトスカーナを思うときに浮かぶ風景のひとつである。けれど、その土地の風景は、建物や地形だけでできているわけではない。そこに暮らす人々の手つき、季節との付き合い方、食卓を囲む時間までを含めて、ひとつの土地の姿になる。だから、その一部だけを切り取り、別の場所へ運ぶことはできない。
料理もまた、同じである。同じ食材を使い、同じ手順をたどり、同じように皿へ盛りつけたとしても、それだけで同じ料理になるわけではない。料理は、土地の気候や水、食材が育った時間、火の入り方、そしてその日の空気に影響される。何より、それをつくる人がどこに立ち、誰のために料理するのかによって、その姿を変えていく。トスカーナをそのまま再現しようとするほど、本当に心を動かされたものから、かえって遠ざかってしまうのかもしれない。
私たちがトスカーナという言葉に重ねるのは、完成された様式ではない。もっと根源的な、料理と暮らしに向き合う姿勢である。
火を使うこと。火は、食材を加熱するためだけの道具ではない。強さを見極め、近づけ、離し、ときには待つ。目の前で起きている変化に耳を澄ませながら、その食材が最も美しくなる瞬間を探していく。火を扱うことは、すべてを思いどおりにすることではない。料理する人の意志と、自然に起こる変化とのあいだに、折り合いをつけていくことである。
季節を待つこと。欲しいものを、いつでも同じように手に入れようとはしない。その食材が力を蓄える時期を待ち、短い旬が訪れたときには、その一瞬を逃さず受け取る。季節は、料理を制限するものではない。今日つくるべきものを教えてくれる、静かな手がかりである。
土地のものを見つめること。近くで採れたという理由だけで、食材を尊ぶのではない。その形や香り、わずかな苦みや酸味のなかに、この場所の気候や季節がどのように現れているのかを考える。遠い土地で学んだ技術も、目の前の食材を押さえつけるためではなく、その声をより深く聞くために使う。
そして、食事を急がないこと。料理は、厨房のなかだけで完成するものではない。アペリティーボが注がれ、ひとつの皿が運ばれる。誰かが言葉を発し、別の誰かが笑う。話が弾むこともあれば、料理を前にして、しばらく言葉が途切れることもある。その沈黙さえ、食卓を形づくる時間のひとつである。一皿を食べ終えることだけが、食事の目的ではない。気のおけない友人と過ごすように、同じ場所に身を置き、同じ料理を分け合いながら、少しずつ日常の速度をほどいていく。料理の味は、その時間のなかで変化する。ワインを注ぐ音や、窓から差し込む光、その日に交わされた何気ない言葉と結びつき、やがてひとつの記憶になっていく。
トスカーナで培われたのは、持ち帰ることのできる完成形ではなかった。土地を見つめ、火と向き合い、季節を受け入れ、人と食卓を囲む。その姿勢こそが、いまも料理の根にある。
だからHiro鎌倉は、イタリアの料理をそのまま十二所へ持ち込もうとはしない。遠い土地で得た眼差しを通して、いま立っている場所を見つめ直す。十二所に差す光。庭に訪れる季節。その日に届いた食材。火の前で感じる、わずかな変化。それらに耳を澄ませながら、トスカーナで学んだことを、十二所の言葉へと翻訳していく。
翻訳とは、同じ形に置き換えることではない。異なる土地のあいだにあるものを見つめ、それぞれの違いを受け入れながら、ここでしか生まれない答えを探すことである。皿の上に現れるのは、トスカーナの複製ではない。トスカーナへの憧憬を通して、あらためて見つめた十二所の姿である。遠い土地を思うことは、いまいる場所から離れることではない。むしろ、見慣れた風景のなかに、まだ気づいていなかった豊かさを見つけることなのだと思う。
土地のものを見つめること。近くで採れたという理由だけで、食材を尊ぶのではない。その形や香り、わずかな苦みや酸味のなかに、この場所の気候や季節がどのように現れているのかを考える。遠い土地で学んだ技術も、目の前の食材を押さえつけるためではなく、その声をより深く聞くために使う。
そして、食事を急がないこと。料理は、厨房のなかだけで完成するものではない。アペリティーボが注がれ、ひとつの皿が運ばれる。誰かが言葉を発し、別の誰かが笑う。話が弾むこともあれば、料理を前にして、しばらく言葉が途切れることもある。その沈黙さえ、食卓を形づくる時間のひとつである。一皿を食べ終えることだけが、食事の目的ではない。気のおけない友人と過ごすように、同じ場所に身を置き、同じ料理を分け合いながら、少しずつ日常の速度をほどいていく。料理の味は、その時間のなかで変化する。ワインを注ぐ音や、窓から差し込む光、その日に交わされた何気ない言葉と結びつき、やがてひとつの記憶になっていく。
トスカーナで培われたのは、持ち帰ることのできる完成形ではなかった。土地を見つめ、火と向き合い、季節を受け入れ、人と食卓を囲む。その姿勢こそが、いまも料理の根にある。
だからHiro鎌倉は、イタリアの料理をそのまま十二所へ持ち込もうとはしない。遠い土地で得た眼差しを通して、いま立っている場所を見つめ直す。十二所に差す光。庭に訪れる季節。その日に届いた食材。火の前で感じる、わずかな変化。それらに耳を澄ませながら、トスカーナで学んだことを、十二所の言葉へと翻訳していく。
翻訳とは、同じ形に置き換えることではない。異なる土地のあいだにあるものを見つめ、それぞれの違いを受け入れながら、ここでしか生まれない答えを探すことである。皿の上に現れるのは、トスカーナの複製ではない。トスカーナへの憧憬を通して、あらためて見つめた十二所の姿である。遠い土地を思うことは、いまいる場所から離れることではない。むしろ、見慣れた風景のなかに、まだ気づいていなかった豊かさを見つけることなのだと思う。
TEXT BY HIROKI YAMASHITA
TEXT BY HIROKI YAMASHITA